2016年8月7日日曜日

2016年のオリンピック!

リオ五輪が開幕し、4年に一度のスポーツの祭典がブラジルのリオで行われています。

7月に私は『リオ五輪に向けて…奴隷のダンス、そして日系人』記事内でカポエイラ関連で色々と書いています。






この手の記事には以前から、日系人当事者として色々と思うものがありました。

右よりの新聞だと、ブラジル日系人に対し祖国・日本に強い愛国心を持っていて欲しい…的な論調(色)の記事に違和感を持っていた。

その記事内の取材した日系人は現地の日本右派団体の方なんじゃ…?と推察したりしていた。


基本的に、メディア(新聞・出版等)にはバイアスかかるのは仕方のないことです(あえてかけているとは思いますけど)。

今も思うのは、日本に対する郷愁を持つ日系人を期待する・望んでいる記事に違和感を持ちます。
移民(移住)した代の方なら、わかりますが…子孫はどんどんと現地に馴染んでいくものです。

例えれば、アメリカ人で『私は家系の祖国イタリアが懐かしい!イタリア万歳!』と言っているアメリカ人を、あまりみたことありません(あくまで例です)。
家柄が立派な方(政治家輩出など)は、今も大事にしていたりするとは思いますが。
(※私はアメリカ白人の移民史(祖国別の)には詳しくない)

私はツイッターで、アメリカ現地の日系アメリカ人女性と会話したことがありますが…
『若い世代は日系アメリカ人でなくアジア系アメリカ人というアイデンティティーになり、ルーツに対する意識が薄まっているよ』とその方の周囲のことを教えてくれました。

あぁ、そんなもんだよな…と思いました。

そして、それでいいと思います。


私の母の実際のエピソードですが…
母自身はブラジル人の意識でブラジルで育ちました。
当時の食事もブラジル文化(南欧系に色々混ざった感じ)で暮らした。

母本人は、ブラジル人だという意識はある。

しかし、日系ブラジル人の母に対し、意地悪な人達は「君は、味噌みたいな変なの食べてるんでしょ?」と嘲笑してきて『境界線を引いてくる』。
(※この言葉には味噌は大便みたい…という見方が入っています)


多少、日本の文化が残ってはいるが、ブラジル文化を取り入れた日系ブラジル人をブラジル社会の仲間に見てくれない悲しさを母は感じたらしいです。

「チンチョンチャン」という極東アジア人に対する侮蔑嘲笑語が欧米にあるそうですが…
似たようなことはブラジルにもあったのだ。



過去、日本にあるブラジル人町で有名なタウンのルポをテレビで観たことがありますが…

日系ブラジル人の女性が、半泣き状態で「ブラジルでは日本人と言われて境界線引かれて、ここ日本に来たら、ブラジル人と言われる」と言ったのが印象に残っています。
その女性は、私の母みたいな辛い思いしたのね…と切なくなりました。


ハーフの方が国と国との間で挟まれて、どっちつかずの扱いにされて孤独を感じる問題がありますが…
それは日系人にもある問題です。

ハーフ関連の執筆で活躍している女性、「サンドラ・ヘフェリン」さんのサイトのコラムには
真面目なことが色々と書かれています。

コラムに対するコメントも、当事者の方達(ハーフ)で集まっているので読むと、
選んだ言葉掛けが必要なことが伝わってきます。


ルーツ・アイデンティティーは繊細で難しいものです。

この機会に、やや傲慢な日本側の日系人に対する目線に気づいて欲しいと個人的に思ったりします(私一個人の意見です)。


2 件のコメント:

  1. 『若い世代は日系アメリカ人でなくアジア系アメリカ人というアイデンティティーになり、ルーツに対する意識が薄まっている』というお話は、とても興味深く思われました。

    文章や表現って、どうしたってその人のバイアスがかかってしまいます。
    どんなに「客観的に中立に」書こうとしても、社会的な条件や歴史的な制約からは逃れられません。

    移民やその子孫にも、本人自身の生まれ育った国、親や祖父、曾祖父の故国のルーツを強く意識しつづけている人もいれば、移民先の社会に溶け込んでしまいたいと思っている人もいることでしょう。

    でも、「日系人」の多いブラジルで開かれた五輪大会。日本との関係を見つけ出したい(というバイアスのかかった)日本の新聞の記者が、そうした流れの中で「日系人」を取り上げる場合、どうしたって、「こんな人もいます、あんな人もいます」じゃなく、「祖国日本」を意識した日系人の考えをすくい取って記事にせざるを得ません。

    その結果、日本の読者には、「こんな人や、あんな人」の姿は見えず、日系人なら誰しも「祖国」日本を意識しているんだなあ、なんて受け止め方になってしまいますね。

    ところで、アメリカの場合、かつては「人種のるつぼ」なんて言われて、いろんな民族や人種がひとつに溶け合って「アメリカ」という国を作っているんだ、なんて言われていました。
    でも、20世紀後半には、いやいや、そうじゃないんだ、いろんな民族がそれぞれ個性を失わないで共存する、多様性こそが、アメリカの強さなんだ、ということで、「人種のサラダボール」と言われるようになりました。
    同じようにカナダは、いろいろな国や地域からの移住者によって構成された「モザイク社会」とされています。
    だから、ふうこさんが「あくまでも例」として挙げられたイタリア系アメリカ人にも、「親の代からアメリカで生まれ育ち、イタリアには行ったことはないけれど、自分はイタリア系だという意識がとても強い」なんて人もいます。http://takeiteasyinamerica.com/?p=5812

    でも、そんな中でも、「日系」ではなく「アジア系」というレベルでのアイデンティティーになりつつあるというのは、新鮮な情報で、面白いと思われたのです。

    ところで、ブラジルはいかがですか?「人種のるつぼ」?それとも「サラダボール」モデルでしょうか? 記事を読む限り、「人種のるつぼ」のようですが?

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    1. 馬仙人様。
      経済階層・地域でも様子は違うでしょうね(当たり前なんですが)。
      ブラジルでは嫌な言い方ですが、下層的な庶民は混血が進んでたりしますね(大昔が下層で今は中流層含)。
      だから、白人・黒人・アジア系色々が混ざった顔の『ネイマール』系がこの層だったりします。ネイマールはサッカースターで金持ちですが。

      田舎に居た白人が遅れて都会に来ると、貧しい白人だったり…と社会学的な階層移動の部分で詳細な個別分析は難しいのですが。

      まぁブラジルも広くて、高級住宅地に住むお金持ちの白人の一部は絶対に他人種を混ぜない…とか色々あると思います(混血の金持ちも居ます)。
      広いし、簡単には分析できないのですが…、
      多分アメリカも地域差・階層で違いはあるかと思います。

      日系人でも本当に守ってて、他人種入れないっていう家系・グループはあるでしょうね。我が家系も、ブラジルに長く住み馴染んでくると黄色人種外の方との結婚をそんなに反対しなくなりました。

      どこも似ている様ですが、田舎と都会では空気が違いますね。
      日本も、港町の横浜とかは歴史的背景から異文化を受け入れるメンタリティーが柔軟である…みたいな地域の空気があります。
      具体的にどこだかは失念しましたが、カナダやアメリカも他人種や異文化の方を柔軟に受け入れて生きやすい地域があるようです。

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